COUNT編集室

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ハライチ岩井のエッセイ?コラム?貫け!~魚雷⁉雷?電流が走った書く技術

芸人ハライチ岩井のコラム・エッセイを読んだテーマは『誕生日パーティ』だ。

 

いかにも、私とは縁遠いテーマだ。

そして、今頃、誕生日パーティなんてあるんだ~。そう思いながら読み始めることにいした。


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私も、パーティや飲み会が苦手だ。ちょっと、近いものを感じた。

しかし私はこれだけではなく、岩井と違って社交性も無い。

全日制の高校ではなじめず高校は通信制編入したほどだ。今でも、思うのがほんとダメ人間!

もちろん、そんな奴はパーティや飲み会以前の問題だが。そんな悲しいことはいわずに、前向きにさらに読み進めていった。

 

語りすぎると、面白味がなくなることは分かってはいたが、その面白さを伝えたい気持ちが上回った。

お祝いというのは基本的に、祝う側に「祝いたい」という気持ちがあって成立するものだ。

この一文を読んだ時、「祝う」ということを考えさせられた。

「祝う」ことについて縁遠く、思い返してみると、今まで誰かや何かを「祝いたい」と思ったことがない。

なんとなく祝って、なんとなく祝われて、「祝う」ことだけではなく何に対しても無頓着だった。「祝う」ということを書いている今も、実際そこまで理解していないのかもしれないと思っている。本質まで理解している人はかなり少ないと思いますけど、

 

自分の誕生パーティを開く人はやはり寂しいのか、それともただの自己満足(自己中)なのか、

そして、よっぽど自分に自信があって

どちらにしろ人のことはあまり考えていないようだ。記事を読んでいて思った。

確かに参加したい人はたくさんいるが、それ以上に参加したくない人もたくさんいると思う。

 

家族でも、本当は『めでたい』と思っているが、

誕生日プレゼントを選んだり、パーティに参加・主催したりとしているうちに本質を忘れているのではないだろうか。 

 

そして

ハライチの岩井は、私にはマネのできない行動に出るのだ。

普通に何も考えずに参加するではなく、もしかしたら罠(からかい)なのではないかと危惧したうえで誕生日パーティに参加すると決めるのだ。

とてもマネできない。差が出るとこはこんなとこだ。斬新なネタを見て分かってはいたが、すごい精神?の持ち主だ。

 

そして、もちろんそのパーティにただで死ににはいかない。

得意な絵で、魚という名の魚雷をもって会場に向かった。

 

そう、魚雷と表現するのが素晴らしい。

魚の絵を魚雷(魚形水雷)、そう魚の形をしている爆弾、こんなこと思いつくだろうか?ここまで、考えられているからこそ。このエッセイは作りこまれている。

 

このコラムは、読み手の想像を膨らませる書き筋で読者を大いに楽しませてくれる。

次回作も楽しみだ。楽しみにしています。

 

そして、改めて私は岩井の凄さに「あっ」と言わされた。

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